版画収集家や版画に興味のある方からの、ご質問や情報をお待ちしています。

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版画の喫茶室 / Visitor's Cafe へようこそ  

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このカフェでは、ホームページの訪問者から寄せられたお手紙や質問を紹介しています。
なにかお気づきの点やご質問などがあれば 遠慮なくMAILを下さい。


K氏 2002/7
レンブラント版画を入手しましたが、いつ頃の刷りでしょう。またそれはどのようにしてわかりますか?
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Rembrandt H. van Rijn 1606-1669
レンブラント・ファン・レイン

エジプト途上の聖家族
THE FLIGHT INTO EGYPT: CROSSING A BROOK

1654
年、エッチング、Hind 276
9.4x14.3cm
、版上サイン

来歴:Christie's, London

レンブラント版画の刷り、紙、インク
レンブラントの版画
版画史上最高の評価を与えられているレンブラントは17世紀オランダを代表する画家で、生涯を通じ300点以上の版画を制作しました。またその主題も自画像・旧約聖書・新約聖書・神話・風俗・風景・肖像など多岐にわたっています。


早くから経済・文化が発達したライン川低地地方(ネーデルランド)では、市民社会の勃興とともに版画の需要が急増し、古くはブリューゲル(16世紀半ば)あたりから、原画の制作者と彫師・刷師・刊行元が分業の形で版画を作り、販売するるということが行われました。レンブラントと同時代のルーベンスも大きな工房を持ち、彫師をやとい自分の原画を版画化して売るといったことを行っています。

これに対しレンブラントは、版画制作を自分の芸術手段として行い、自らが彫り、自らが販売するという方法を選んでいます。刷りは後述のように、多くの場合専門の刷師または弟子にさせていたようです。ある程度の枚数を刷り、それが売れるとまた刷るという方法ですので、今日的なエディション数などの観念は通用せず、刷り部数なども判明していません。

さて、レンブラントは53歳の時に破産宣告をうけ、それまでに制作した79点の版画の原版が競売にかけられました。その後、これらの原版をもとに18世紀にはパリの版画商バサン親子が刷ったいわゆる「バサン刷り」や20世紀初頭の「ベルナール版」などが刷られてい
ます。世の中に流通する大多数の版画はこうした後世の後刷りであるとも言われています。ここでは、版画の刷りを見分けるポイントをみてみます。

刷りと紙・インク
レンブラントが1626年に版画の制作を始めた頃、自分では刷りの機械(=プレス)をもたず、刷り職人として高名だったヤン・ピーテルスゾーン・ベーレンドレフトに刷りを依頼しました。このためレンブラントの最初期の版画には、レンブラントの銘とともにこの刷師の銘が入ったものが残されています。


ところが1656年前述のように、レンブラントは財政状態が悪化して破産の憂き目に遭遇します。この時作成されたレンブラントの財産目録には1台のプレスが寝室のリネン棚のそばに、もう1台が階下の側室後方の部屋にあったことが克明に記されています。このことからレンブラントの家には少なくともプレスが2台あったことが分かっています。

とはいえ、さまざまな状況証拠から、今日では版画の刷りの殆どは弟子たちによって行われていたと推測されています。また、競売により家と共にプレスを失ったレンブラントは、その後、専門の刷師に依頼して刷りをおこなっていたと思われています。レンブラントの死後、クレメンテ・ヨングという刷り師のもとに版画原版が多数残されていたことなどがその説を裏付るものとされています。レンブラント版画の多くは、レンブラントの委嘱によって、またその指導のもと弟子や専門刷り師が刷ったと理解してよいでしょう。

さて美術館などに所蔵されている当時のレンブラント版画を見ると、小さなものは殆どがレード紙です。このレード紙(laid paper )というのは木綿や麻などを原料にし、等間隔の平行線をもつ柔らかく薄い紙のことです。おこらく、繊細な線が潰れないように刷れるようにこの紙が使われたと思われます。なおごく稀に、当時オランダと交流があった日本から到来した和紙が使用された例もあります。

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近年はこの漉きの線や、また透かしなどで年代の鑑定が進みましたが、小さな版画の場合その透かしからはずれた位置に刷られた場合、、透かしが一部しか見られなかったり、あるいはまったく見られなかったりすることも少なくありません。

←レ-ド紙 の漉き目と透かしの例 

当時紙は貴重で高価でした。財政的な問題を抱えていたレンブラントは豊富な紙の在庫を抱えることが出来ず、極めて少量づつ紙を購入していたことが今日の研究でわかっています。またアムステルダム国立美術館所蔵のレンブラント版画に、1枚の紙の中にまるでジグソー・パズルのように多くの版画が刷られている例が残されていまする。これは数多くの小版画の原版をならべてから1枚の紙で刷った例証といえましょう。このように刷られた紙が裁断されるのですから、紙が高価であった当時のレンブラントやデューラーなどの古版画が、ごくわずかなマージン(紙の余白)を持っていない理由が説明できるでしょう。

ところで大きな版画の場合、このレード紙では支持体として十分な強度を持ちにくいことから、カートリッジ紙が使われました。このカートリッジ紙とは、製紙に使われる木桶に残った繊維の澱やかすから作られる厚手の紙で、もっぱら弾薬(カートリッジ)の包装紙として使われたことからこの名があります。「聖母の死:1639年 B99」などの大判版画の多くはこのカートリッジ紙に刷られています。

さて、「エジプト途上の聖家族」ですが、透かしや漉き目ははっきりしないものの、薄手のレード紙に刷られたものであること。プレートマーク周辺で裁断され、マージンもそれほど広いものではないなど、17世紀のレンブラント版画に共通する特徴が見られます。また、刷り色は墨です。

これに対して18世紀のいわゆるバサン刷りは、やや厚手のウーブ紙(今日のアルシュ紙のような、薄いフエルト状の紙)を用い、インクもやや赤茶色がかった色で刷られています。この版画がバサン刷り以降のものでないことがわかります。(ポール渡部 外国版画マニュアルP75参照)


版の改丁や磨耗
版の改丁や磨耗も刷りの時期を推定する大きな手がかりとなります。例えば、薬剤師アブラハム・フランセンという版画では、なんと10回の加筆・補筆がなされています。こうした版画の場合、改訂の順序も研究されていますから、ステートの同定もある意味では比較的に簡単といえます。またレンブラントが加筆・改訂する前のものは、少なくとも生前の刷りといえますので、こうした刷りを「LIFE TIME IMPRESSION」と呼ぶこともあります。数が少ないことからこうした改訂前ものものが市場で高価なことも中にはありますが、完成された最終版が最も高価なものであるケースもまた少なくありません。


なお、版が磨耗したため、後世になって別の人が彫り直ししたり(Re-Work)、改変するケースも少なくなく、そうしたものの場合、オリジナルの状態が損なわれることから価格は大きく下がることになります。(例 ベイリー版)

さてこの作品には、レンブラントによる版の改訂や、後世のRe-Workなどの記録が特にありません。従って、ステートの比較は出来ませんので、版の磨耗などで刷りの時期を見ることになります。1993年、ロンドンのサザビーにburr(バー:まくれ)の豊かな初期刷りのものが出品され邦貨換算でおよそ100万円以上の予想価格でした。それに比べこの作品は、burrの磨耗がやや見られるものの状態も概して良く、比較的浅い時期の刷りだということがうかがえます。このBurr:まくれ はドライポイントで銅版を彫った時に出来る「まくれ」で、この「まくれ」の中にインクがたまり、ビロードのような豊かな黒の効果を作るものとして知られています。とはいえ、柔らかい銅のまくれのため、刷りが進むと次第にこの「まくれ」が磨耗し、最後にはスカスカの状態となります。版にもよりますが、状態のよい刷りは通常数百枚程度までと考えられています。

1999年のロンドン・クリスティーではこの作品より後の刷りで、バーの磨耗がもう少し進んだ状態のものが出品されましたが、予想価格が50万円前後でした。オークション価格と画廊などで販売される価格は実際は異なりますが、比較・参考になると思います。

参考書
レンブラント版画の関連文献として次ぎの展覧会カタログをオススメします。古書店などで見かけることが多く入手しやすいこと。 また近年進んだ紙と透かしなどの研究が詳しく載っており、参考になると思います。

○「レンブラント銅版画展」 1993年 4月 町田市立国際版画美術館
○Rembrandt's  Etchings 「レンブラント版画展」 2000年 3月 東京新聞主催 小田急美術館カタログ

A氏 2001/8
1)DurerからCallotの時代に腐食エチングで使用されたグランドの変遷、作り方とその原料は何か教えて下さい。
2)Durerの時代の腐食液は何が使われていたのか、その液をどうして使ったのか。
3)Rembrandtが使用したオランダ腐食液はどのようにして発明されたのか。
4)Hercules Seghersの作品は何処に行けば見ることが出来るか、またその文献があれば

以上の件を教えてください

エッチングの腐食液とグランドですね。私も興味がありますので、お調べしてからアップいたします。ちょっとお時間をください。

と書いて、1年ほど経ちますが もうすぐアップいたします。いましばらく お待ちください。(2002/7)
A氏 2001/6
カークという人の幻想的な版画を持っています。この作家のことを知りたいのですが。
スペルが分からないので何とも言えないのですが、18世紀末にThomas Kirkという画家がBoydellのシェークシピア・ギャラリーという版画集の企画に参加しています。この人でしょうか?
出来ましたら、正確なスペル、版画の大きさ、作風など もう少し詳しく教えていただければ調べるのに助かります。
O氏 2001/6
次回の展覧会の予定はいつ頃なのでしょうか?
2002年5月を予定しています。その2-3月前にはこのホームページにて、オンライン・カタログがご覧いただけるようにするつもりです。なおオンライン・ショップも計画中ですので、決まりましたらご案内させていただきます。
K氏 2001/6
作家略歴で紹介されているブリューゲルの流れを汲むBOLのファーストネームはFerdinandではなくHansではないでしょうか。
ご指摘の通りです。早速訂正いたしました。Hans Bol はブリューゲルと同時代の作家。一方Ferdinandは、若い頃はレンブランントのお弟子さんにもなった版画家です。記述の訂正をいただき大変ありがたく思います。ありがとうございました。なお、ハンス・ボルとブリューゲルの共作の「四季」が2001年の7月のオークションに出ています。
>ALL
これは違うのでは...と 思われた方は、是非お知らせください。大変助かります。
T氏 2000/10
ルドンの「聖アントワーヌの誘惑 第3集」の初版と再版は同じ版を使っていますが、この見分け方があれば教えてください?
初版は刷師として有名なClot(クロ)とBlanchard(ブランシャール)が24点を手分けして刷り、限定50部で1896年、ヴォラールにより刊行されました。この初版には版上サインがあります。

第2版(再版)は、1938年にやはりヴォラールから限定210+10(非売品)の220部で刊行されていますが、初版にあった2点が抜け、22点のセットになっています。こちらのほうは、この版上サインが消されており、また刷り圧が高かったせいか、全体に紙が波打っているのが特徴です。なお一般に出回っているのは、この第2版のほうです。

K.K氏
2000/12/18
初めてメールします。オールドマスターとは分野が違うのですが、博物図鑑のプレートやDavid Roverts等の風景版画を収集している者です。これらの銅版、石版画を額に入れないで保存しておくのに良い方法があったら教えてください。
写真が普及する以前は、外国探検にカメラマンならぬ画家を同行させることが行われました。未知の世界の珍しい光景、風景や遺跡、また動植物などいわいる博物学において、画像の記録・普及という点で版画の果たした役割は少なくありません。最近では博物画を専門に収集する方も増えてきているようです。

さて、ご質問の版画の保存法ですが、版画の一番の大敵は「湿気」と「強い光」です。紙の間に挟んで、なるべく湿気の少ないところに置かれるのがよいと思います。また時々、作品を眺めるつもりで虫干しをかねて、外気に触れさせると良いと思います。

K氏
2000/7/15
デューラーやレンブラントなどの有名な版画家の資料・略歴などは比較的手に入りやすいのですが、もっとマイナーな作家も載っている辞典のようなもの ありますでしょうか?Bartolomeo Schidone という作家の1812年の作品を持っているのですが。
さて、Bartolomeo Schidoneですが イタリーの画家・版画家1570-1615)だと思います。生没年も文献により違うのですが、HINDが1908に刊行した本(*1)によると1560?-1616?となっていますが、1966年刊の別の文献(*2)によると「イタリーのモデネ近郊で1570に生まれ、1615年12月23日パルマで没す」とあり、こちらの方が具体的で信頼性が高いように思います。
同姓同名の他の版画家という可能性もありますが、版画の場合当然同一のイメージが多数刷られるわけで、もし同名の作家が何人かいれば当然記録に残っているはずです。(この可能性は絵画作家より遥かに高い)
さてお手元の版画19世紀のものとのことですが、シドーネは画家としても活動しており、その絵画作品がルーブル美術館をはじめ、リヨン、ミュンヘン、ヘルシンキ、モスクワ、ナンシーなどにある公立美術館に収蔵されています。
18−19世紀に、いわいる芸術に対する関心が高まるにつれ、小市民の間に版画に対する需要が出てきます。(オランダは17世紀頃)当然、有名な絵画を基にしたいわいる翻刻版画=絵画を版画に置き換えたもの(一種の複製)への需要も急増し、出版社もその需要に応えるべく数多くの版画集が出ました。こうした翻刻版画には、画面左下に原画を描いた作家の名前と、それを示す del、pic またはpix(描いたという意)が彫られ、画面右下にそれを版画に制作した彫師の名前とsc.(彫りの意)があります。恐らくそうしたものではないかと推測いたします。

で、もう一つお尋ねの「辞書」ですが、私が愛用しているのが、*1 と*2の文献です。
*1   A HISTORY OF ENGRAVING & ETCHING   by Arthur Hind   版画家2500名以上収録
*2   BENEZIT(ベネジ)美術家辞典 ( 全8巻?)
                    =====================
*1はドーバー社から復刻あり。また*2は 私が持っているのが旧版と新版のMixしたものですので、新版が全何巻か良くわからないのです。^^;   何しろ何年がかりかで刊行されてたものですから。
何かお尋ねがありましたら、分かる範囲、調べられる範囲でご協力いたします。


Y氏

2000/5/8
はじめまして,素晴らしいHPをありがとうございます。

小生、最初の英国浪漫派版画展のカタログ今でも大事に取ってあります。
レーンの都市教会の初版本、今でも憶えています。時々画集を取り寄せたり、エスタンプを集めてる程度のしがない愛好家ですが、これからもHP,楽しませて頂きます。
Yさん、はじめまして。
というか、きっとお会いしているのでしょうね。
思いがけないメイルありがとうございます。「英国浪漫派」版画展は、私が企画した最初の版画展で1980年。20年前のことです。なんやら恥ずかしいやら 嬉しいやら。

今後とも「古版画」道を歩もうと思います。あたたかいご支援をお願いいたします


Q

2000/3/25  エミール・オルリク
先日、宮城県美術館で「エミール・オルリク」という人の版画を見ました。

気に入ったのでブックショップで画集でも、と思いましたが、資料が全くないとのこと。ネットで検索をしていたところ、このHPにたどり着きました。昭和初期に日本に1年程滞在、浮世絵に影響を受け、日本の版画集を出しているようなのです。お願いですが、もし、知ってる事があればご一報ください。


A

2000/3/28  エミール・オルリック Emil Orlick(1870-1932)

「ウイーン世紀末に活躍したジャポニスム(=日本趣味)の版画家」ということくらいしか知りませんでしたので、これを機にちょっと調べてみました。

【略歴】
1870年7月21日プラハ(チェコ)に生まれ、1932年8月8日、ベルリンで没す。ミュンヘン美術学校で、リンデンシュミッツ(Lindenschmitt)らのもとで学ぶ。1897年オランダとパリに旅行。1898年英国旅行。1900/1年日本旅行。日本の木版画(浮世絵)の技法を学ぶ。1903年頃から クリムトなどと共にウイーンの分離派(Wiener Sezession)として活躍。1905年からベルリンの芸術工芸美術館の教授になる。1911年、エジプト、中国、日本、ロシアを旅行。etc

【文献】.
1916年 Jg7 DAS PLAKAT(ポスター誌) などにその紹介があるそうです。

【版画集】
Orlick は ”Aus Japan”(日本から)という銅版画とリトグラフからなる25点組の版画集を1904年に出しています(復刻版が四谷の雄松堂から出ている)。 またラフカディオ・ハーンの「怪談」などの挿絵も手がけているようです。

【日本最初の蔵書票を手がける】
丸善・日本橋店にて1992年に「エミール・オルリック蔵書票展」。日本初の蔵書票は明治33年、雑誌『明星』掲載の彼の作品だそうです。

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Emil Orlick 
1870-1932

エミール・オルリック

「富士巡礼」 木版画


 Q
2000/3/16  古い版画の紙は何故切られているのですか
展覧会でデューラーやレンブラントの頃の版画を見ると、画面の周りで紙が切られているものが多いようです。何か理由があるのでしょうか? ちょっと疑問に思ったものですので。


A

2000/3/18  古版画は何故 紙が切られているのか

「版画の歴史は紙の歴史」とも言われますが、西洋で紙が普及しはじめたのは15世紀頃からで、当然西洋版画史も、その頃から始まったことになります。

しかし普及し始めたといっても、当時は紙はまだまだ高価でした。ですから版画を刷るとその周りを切って、残った紙にまた違う版画を刷るということが通常のこととして行なわれました。デューラーやレンブラント、ブリューゲルなどの版画で当時の刷りのものは殆どが こうして周りにあるマージン(余白)が切られているのです。なお日本の紙が樹皮を原料にしているのに対し、西洋の紙はボロ布(麻や木綿)を原料にしていたため、出来あがった紙は厚手で、にじみやすいものでした。そのためレンブラントなどは、良い作品を刷るため日本から輸入された和紙を用いているほどです。こうした場合、良い刷りが得られる紙がとても貴重だったということは、容易に想像出来ます。

つまり「当時は紙が高かったから」が正解ということです。


Q

2000/1/15  デューラー版画の値段とそれを買った人たち
スイス在住のMと申します。

美術史も学んでいるのですが、先日疑問に思ったことがありました。と言いますのは、デューラーは絵画の他にも数多くの銅版画を残していますが、当時それらの銅版画をどんな人が手にして、どのくらいの値段で売買されていたのか知りたいと思っています。特に彼の三大銅版画である《騎士と死と悪魔》《メランコリア》《書斎の聖ヒエロニムス》についてお教えいただけると幸甚です。


A

2000/1/16  デューラー版画の値段とそれを買った人たち

ご質問にある版画の売り先と価格(特に彼の三大銅版画)に関するお答えですが、残念ながら正確なことはよく分からりません。
                       **** * ****

とはいえ、その頃の様子を示唆するものがないという訳ではありません。

Franz Winziger が著した”ALBRECHT DURER”という本があります。(Rowohlt Taschen Verlag GmgH, Reinbek bei Hamburg,1971) この原著を上野の西洋美術館の館長をされた前川誠郎さんが1985年に訳されたのが、グラフ社から「デューラー」というタイトルで出版されています。ISBN4-7662-0100-0C1071   以下はこの本からの一部引用です。なお数字は引用の該当頁。
  
                       **** * ****

・ 今日、デューラーの手になる約120点の絵画…約350点の木版画、および100点余りの銅版画が遺されている。(P.15)

・ デューラーは、それに見合う報酬が得られないために、(油絵の)大作の注文を引きうけるわけにはいかず、彼の妻は市場や博覧会で夫の版画を売りさばかねばならなかった。(19)

・デューラーの父は、義父の遺産の一部200グルデンに100グルデンの借金を加え、今日のブルク通りにあった金工師クラフトの家を手に入れた。(24)

・ (デューラーの妻)アグネスのもたらした持参金200グルデンは、市民の生活水準にとって相当の額であり、中程度の家を購入するに充分なほどであった。(40)

・ 1505年、デューラーは再びベネツィアに旅だった。…デューラーの妻は、8月24日に始まるフランクフルトの定期市へ夫の版画を売りに出かけた。(92)

・ デューラーはすでにひとかどの高名な芸術家だったにもかかわらず、ピルクマイヤーに旅費を立て替えてもらわなければならなかった。デューラーはこのほかにも、新作の小品を携えていったが、それらは1点9ドゥカートで飛ぶように売れた。また木版画と銅版画を入れた帙を持って行ったことも確実である。(93)

・ (デューラーの購入した)ユークリッドの版本の表紙には、デューラー自筆の書き込みがあり、この本をヴェネティアにて1507年に8ドゥカートで購入したとある。(94)

・ デューラーは(油絵の大作 ローゼンクランツ祝祭画 1506年 プラハ国立絵画館)によって110グルデンを得た。(99)

・ (1509年油絵・板絵 ヘラー祭壇画)デューラーは初め130グルデンを要求したが、割が合わないとわかって総額200グルデンまで引き上げた。(111)

・ イヨルク・タウジイという男が400グルデンで同様のマリア像を依頼した時、(それを)「断り」、そんなことを引きうけたら乞食になる、…私は版画に向かいたい。(111)

・ デューラーは、アーヘンで〈マテス〉に2グルデン相当の作品を贈った。多分版画だったのであろう。この〈マテス〉なる人物が誰であったかは確定し難いが、あるいはマテス・ピュヒラーかも知れない。このピュヒラーは、(マクシミリアン1世の書記官で)...100グルデンの年金を終身にわたり市税よりデューラーに給付するというニュルンベルク市あての命令を認めたのも彼である。(168)


(以上引用オワリ)
                     ***** ***** *****

【推測 当時の物価と版画の価格】

当時の1グルデンが現在の幾らに相当するか、というのはなかなか難しいのですが、200グルデンで家が買えたということで、仮に家が2000万円とすると1グルデンが10万円ほどということになります。

(なお、Gulden グルデンの原義は英語でいうゴールデン。つまり金貨の意。)

・中程度の家 200グルデン 2000万円
・デューラーの父が買った家 300グルデン 3000万円
・ローゼンクランツ祭壇画 110グルデン 1100万円
・ヘラー祭壇画 200グルデン 2000万円
・マテスに贈った版画   (複数) 2グルデン     20万円
・年金 100グルデン 1000万円

実際はこの半分にせよ倍にせよ、ある程度のヒントにはなりそうです。
(なお前川誠郎さんの書かれた「デューラー 人と作品」 講談社 の元原稿は昭和45年に執筆されていますが、その時点で1グルデン5万円見当と算定。同書p84)

ヘラー祭壇画が2000万円というとズイブン儲かったような気がしますが、これは1503年頃から打ち合わせがはじまり、1508年の大半を費やし、1509年夏に完成ということですから、手間や時間に比べ、案外割の合わない仕事だったのかもしれません。

さて小品(素描?)が9ドゥカートで売れ、買った本が8ドゥカートということです。当時の本は今と違い高価で裕福な知識人しか買えませんでした。で、その本よりやや高い値段で小品を売っている。当然、版画はこれより安いことになります。

【版画の価格】

現在ならオークションでも、刷りや保存の状態が良い物なら1000万円以上つけるといわれる3大版画の価格ですが、残念ながら、どの作品が当時いくらだったのかの細かな記録は残っていないようです。だた、当時のイロイロな記述から、版画は「今の貨幣価値で数千円」程度で売られたというのが正しいようです。

【版画で生業をたてた最初の画家 デューラー】

デューラーの時代からやや下がると、例えば当時の芸術先進地だったアントワープにヒエロニムス・コックという人が出て、「四方の風」という版画の版元兼画廊のようなものを1548年にオープンし、画家(下絵を描く)、彫師(版画にする彫版師)、版元という分業ができ、ある程度の品数と枚数を揃えておいて販売するという態勢が出来てきます。(銅版画、木版画)

デューラーの頃はこうした流通経路が未分化で、(とはいえ活字+木版画という挿絵本は本屋さんのルートがすでにあった)おそらく、デューラーの銅版画は、そういう本屋さんのルートなり、あるいは旅行に際し、紙ばさみに入れて直接美術の愛好家なり、または教会の門前市のようなところで、直接・間接に売ったのではないかと思います。価格はある程度の目安はつけたでしょうが、一定ではなく、また版画も売れたらまた刷るということだったと思います。

デューラーは1486年、15歳の時、画家になるために家業の金工師の道を捨て画家ヴォルゲムートに徒弟奉公します。この人は教会からの注文で祭壇画をつくる仕事を受けており、彫刻家、ファイト シュトースと共同制作していました。ヴォルゲムートが絵を描き、シュトースが木部の飾りや天使などを彫刻していたのでしょう。さらにデューラーにとって重要だったのはヴォルゲムートの工房では、幾千もの木版画下絵が描かれ、彫られていたことでしょう。これを注文したのは、デューラーの名づけ親のアントン・コーベルガーの経営していた版元で、往時には100人を超える職人が24の印刷機に向かっていたということです。

木版は活字と同じ凸版ですので、本文と同時に刷れたこと。銅版画に比べ技術が比較的楽に得られたこと。また、大部数の刷りにも耐えられるし、彫りなおしも容易なことなどで、こうした絵(木版画)入りの本の需要が大きかったのでしょう。この場合、下絵画家、彫師、注文主(版元)、書店という流れが出来あがる訳ですが、下絵師(デューラーも数多くの木版画の下絵を描いた=更にいうと 彼の木版画の殆どは、他の彫師によるもの)なり、彫師は働いた時間や出来あがり1点あたり幾らというような風に払われたわけで、あとの儲けは版元ということになります。

デューラーの銅版画の場合、こうしたルートで売られたものも当然あるでしょうが、デューラー自身が版元となったので、儲けも自分のもの。生活費の多くをこれでまかなっていたようです。それを示すのが、デューラーの「ヘラー書簡 1507/2/12」で、ここには「もし私がこれまで版画をやっていたとすれば、私は1000グルデン以上裕福になっていたでしょう」と書いています (ヘラー祭壇画を描いた頃)。デューラーにとっては、油彩の仕事は手間の割のはお金にならない。それどころか貧乏になってしまうと思っていたようです。

いずれにせよ、デューラーは版画を生業(なりわい=生活の手段)とした最初の画家とも言われています。また、版画の制作・販売でその財を成したのかはわかりませんが、デューラーの遺産額は6848グルデンにのぼったと記録されています。

【版画の顧客】

版画は、大家の作品でも手軽に買える。しかも軽く持ち運びが容易。同じイメージが複数枚出来るなどの特徴があります。

デューラーは、自分の版画を画家仲間と交換したり、訪ねていった地方の有力者に贈ったりしています。また宿代として払ったり、欲しいという美術愛好家に売ったりしました。

また、1505年、デューラーがアウグスブルクに出かけている間、妻のアグネスがフランクフルト・アム・マインのメッセ(夏の定期市)で夫の版画を売り13グルデンを得た(デューラーの書簡)との記述もありますので、夫が遠くに行っている間に家族の生活を支えたのも版画だったといっていいでしょう。

デューラーの手がけた作品に聖人や聖母子などを描いたものがありますが、これらは、有名な教会堂の門前の店などでも売られたでしょう。そして、それらを手に入れた人は、寝室や台所に護符のような形で壁に張ったり、また普段はしまっておいて、折にふれ出して眺めたり、あるいは旅行に持っていく小箱の内側に張って(聖母子など)、朝晩のお祈りの時にそれを開けて見るというような使われ方をしました。また王侯貴族や裕福な商人たちの書斎に置かれ、時として教養として子弟教育などに使われたと想像されます。

とはいえ当時の生活水準からして、やはり安いものではなかったので、デューラー家の生活を支えることは出来たとしても、版画一般の需要はそれほど大きくはなかったようです。他方、一般の人が目に出来るデューラーの作品は、教会などの祭壇画などは別にして版画を通じてであったといえます。とくに遠隔地の人にとって…。そういう意味では、版画は現在のインターネットと同じような時代の先端をいくメディアであり、デューラーの芸術を広く伝える最適なメディアであったとも言えます。

PS

 

上記のコメントに対する追記です。(2000/5/5)

NIFTYのFREKIにて、児島秀樹さんという方から、1グルデン銀貨の重さ(正味)、および当時の金銀換算比率を教えていただきました。
     =================================
グルデン銀貨
マクシミリアン1世、ドイツ銀貨 2シャウグルディナー、1509年、61.01グラム。フェルディナント1世、ドイツ銀貨 ライヒス・グルディナー、1557年、30.55グラム。カール5世、ネーデルラント銀貨ダールダー・カルロス、1555年、28.15グラム。反乱諸州の最初の貨幣=1575年発行レーウェン・ダールダー貨(ライオンのダールダー)、約27.68g。品位1000分中750。これを見る限りでは、グルデンは30g程度。

金銀換算
、「1560年代まで、金銀比価は1対11以下。1566年のカスティリアでの金貨高騰以降、17世紀の初めまでに金銀比価は1対12をこえる。17世紀末には1対15」。             以上児島さんより   
     =================================

1グルデンが30gの銀。金でいうと2.5gほど。ということから、私が思った1グルデン=10万円ではなく1グルデン=1万円というのが当時の実情に合っているのではと思うようになりました。それに家の価格とはいえ、電気や水道、空調設備のない当時のことですから、家も案外安かったのではと思います。

この他、当時の版画に関するいくつかの記述が見つかりました。

 【レンブラント版画】
2000年4月に開催された、小田急のレンブラント版画展に展示の「羊飼いの礼拝 夜」という作品(1652年)の裏面には、3STという記述があるとの解説を目にしました。3スタイフェルというのは15セントつまり15/100ギルダー。1ギルダーが1万円ならこの版画は、ある時期に1500円だったことになります。また有名なレンブラント版画に「100ギルダー版画」というのがあり、どうも生前にはこの和紙刷りしかなかったようなのですが、レンブラントがこの版画を100ギルダーでオークションで買い戻したことから、名付けられたと言われています。(ということは、およそ100万円の版画ということで、当時驚きをもって、名付けられたのでしょう)

【デューラー版画】
デューラーの時代の1グルデンは、およそ5万円程度ではないかということを前川誠郎さんが書かれています。ところで、デューラーの旅行記に、自分の版画の値段が出てて、「アダムとイヴ」 銅版画 1点 4スタイフェル、「小受難(16点)」銅版画1組 12 スタイフェルとあるそうです。1スタイフェルというのは5セント(100分の5グルデン)ですので、もし1グルデンが1万円なら、4スタイフェルは20セント。つまり10000円の20/100ですから、およそ2千円ということになります。

当時の物価と今と比較するのは、容易ではありませんが、いずれにせよ、デューラー版画は当時数千円ほどだったと推測されます。

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