版画収集家や版画に興味のある方からの、ご質問や情報をお待ちしています。
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版画の喫茶室 / Visitor's Cafe へようこそ
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このカフェでは、ホームページの訪問者から寄せられたお手紙や質問を紹介しています。
なにかお気づきの点やご質問などがあれば 遠慮なくMAILを下さい。
| K氏 | 2002/7 レンブラント版画を入手しましたが、いつ頃の刷りでしょう。またそれはどのようにしてわかりますか? |
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レンブラント版画の刷り、紙、インク
当時紙は貴重で高価でした。財政的な問題を抱えていたレンブラントは豊富な紙の在庫を抱えることが出来ず、極めて少量づつ紙を購入していたことが今日の研究でわかっています。またアムステルダム国立美術館所蔵のレンブラント版画に、1枚の紙の中にまるでジグソー・パズルのように多くの版画が刷られている例が残されていまする。これは数多くの小版画の原版をならべてから1枚の紙で刷った例証といえましょう。このように刷られた紙が裁断されるのですから、紙が高価であった当時のレンブラントやデューラーなどの古版画が、ごくわずかなマージン(紙の余白)を持っていない理由が説明できるでしょう。 ○「レンブラント銅版画展」 1993年 4月 町田市立国際版画美術館 |
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| A氏 | 2001/8 1)DurerからCallotの時代に腐食エチングで使用されたグランドの変遷、作り方とその原料は何か教えて下さい。 2)Durerの時代の腐食液は何が使われていたのか、その液をどうして使ったのか。 3)Rembrandtが使用したオランダ腐食液はどのようにして発明されたのか。 4)Hercules Seghersの作品は何処に行けば見ることが出来るか、またその文献があれば 以上の件を教えてください |
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| エッチングの腐食液とグランドですね。私も興味がありますので、お調べしてからアップいたします。ちょっとお時間をください。 と書いて、1年ほど経ちますが もうすぐアップいたします。いましばらく お待ちください。(2002/7) |
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| A氏 | 2001/6 カークという人の幻想的な版画を持っています。この作家のことを知りたいのですが。 |
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| スペルが分からないので何とも言えないのですが、18世紀末にThomas
Kirkという画家がBoydellのシェークシピア・ギャラリーという版画集の企画に参加しています。この人でしょうか? 出来ましたら、正確なスペル、版画の大きさ、作風など もう少し詳しく教えていただければ調べるのに助かります。 |
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| O氏 | 2001/6 次回の展覧会の予定はいつ頃なのでしょうか? |
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| 2002年5月を予定しています。その2-3月前にはこのホームページにて、オンライン・カタログがご覧いただけるようにするつもりです。なおオンライン・ショップも計画中ですので、決まりましたらご案内させていただきます。 | ||||||||||||||||||||
| K氏 | 2001/6 作家略歴で紹介されているブリューゲルの流れを汲むBOLのファーストネームはFerdinandではなくHansではないでしょうか。 |
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| ご指摘の通りです。早速訂正いたしました。Hans Bol
はブリューゲルと同時代の作家。一方Ferdinandは、若い頃はレンブランントのお弟子さんにもなった版画家です。記述の訂正をいただき大変ありがたく思います。ありがとうございました。なお、ハンス・ボルとブリューゲルの共作の「四季」が2001年の7月のオークションに出ています。 >ALL これは違うのでは...と 思われた方は、是非お知らせください。大変助かります。 |
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| T氏 | 2000/10 ルドンの「聖アントワーヌの誘惑 第3集」の初版と再版は同じ版を使っていますが、この見分け方があれば教えてください? |
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| 初版は刷師として有名なClot(クロ)とBlanchard(ブランシャール)が24点を手分けして刷り、限定50部で1896年、ヴォラールにより刊行されました。この初版には版上サインがあります。 第2版(再版)は、1938年にやはりヴォラールから限定210+10(非売品)の220部で刊行されていますが、初版にあった2点が抜け、22点のセットになっています。こちらのほうは、この版上サインが消されており、また刷り圧が高かったせいか、全体に紙が波打っているのが特徴です。なお一般に出回っているのは、この第2版のほうです。 |
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K.K氏 |
2000/12/18 初めてメールします。オールドマスターとは分野が違うのですが、博物図鑑のプレートやDavid Roverts等の風景版画を収集している者です。これらの銅版、石版画を額に入れないで保存しておくのに良い方法があったら教えてください。 |
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| 写真が普及する以前は、外国探検にカメラマンならぬ画家を同行させることが行われました。未知の世界の珍しい光景、風景や遺跡、また動植物などいわいる博物学において、画像の記録・普及という点で版画の果たした役割は少なくありません。最近では博物画を専門に収集する方も増えてきているようです。 さて、ご質問の版画の保存法ですが、版画の一番の大敵は「湿気」と「強い光」です。紙の間に挟んで、なるべく湿気の少ないところに置かれるのがよいと思います。また時々、作品を眺めるつもりで虫干しをかねて、外気に触れさせると良いと思います。 |
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K氏 |
2000/7/15 デューラーやレンブラントなどの有名な版画家の資料・略歴などは比較的手に入りやすいのですが、もっとマイナーな作家も載っている辞典のようなもの ありますでしょうか?Bartolomeo Schidone という作家の1812年の作品を持っているのですが。 |
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| さて、Bartolomeo Schidoneですが イタリーの画家・版画家1570-1615)だと思います。生没年も文献により違うのですが、HINDが1908に刊行した本(*1)によると1560?-1616?となっていますが、1966年刊の別の文献(*2)によると「イタリーのモデネ近郊で1570に生まれ、1615年12月23日パルマで没す」とあり、こちらの方が具体的で信頼性が高いように思います。 同姓同名の他の版画家という可能性もありますが、版画の場合当然同一のイメージが多数刷られるわけで、もし同名の作家が何人かいれば当然記録に残っているはずです。(この可能性は絵画作家より遥かに高い) さてお手元の版画19世紀のものとのことですが、シドーネは画家としても活動しており、その絵画作品がルーブル美術館をはじめ、リヨン、ミュンヘン、ヘルシンキ、モスクワ、ナンシーなどにある公立美術館に収蔵されています。 18−19世紀に、いわいる芸術に対する関心が高まるにつれ、小市民の間に版画に対する需要が出てきます。(オランダは17世紀頃)当然、有名な絵画を基にしたいわいる翻刻版画=絵画を版画に置き換えたもの(一種の複製)への需要も急増し、出版社もその需要に応えるべく数多くの版画集が出ました。こうした翻刻版画には、画面左下に原画を描いた作家の名前と、それを示す del、pic またはpix(描いたという意)が彫られ、画面右下にそれを版画に制作した彫師の名前とsc.(彫りの意)があります。恐らくそうしたものではないかと推測いたします。 で、もう一つお尋ねの「辞書」ですが、私が愛用しているのが、*1 と*2の文献です。 *1 A HISTORY OF ENGRAVING & ETCHING by Arthur Hind 版画家2500名以上収録 *2 BENEZIT(ベネジ)美術家辞典 ( 全8巻?) ===================== *1はドーバー社から復刻あり。また*2は 私が持っているのが旧版と新版のMixしたものですので、新版が全何巻か良くわからないのです。^^; 何しろ何年がかりかで刊行されてたものですから。 何かお尋ねがありましたら、分かる範囲、調べられる範囲でご協力いたします。 |
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2000/5/8 はじめまして,素晴らしいHPをありがとうございます。 小生、最初の英国浪漫派版画展のカタログ今でも大事に取ってあります。 レーンの都市教会の初版本、今でも憶えています。時々画集を取り寄せたり、エスタンプを集めてる程度のしがない愛好家ですが、これからもHP,楽しませて頂きます。 |
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| Yさん、はじめまして。 というか、きっとお会いしているのでしょうね。 思いがけないメイルありがとうございます。「英国浪漫派」版画展は、私が企画した最初の版画展で1980年。20年前のことです。なんやら恥ずかしいやら 嬉しいやら。 今後とも「古版画」道を歩もうと思います。あたたかいご支援をお願いいたします。 |
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2000/3/25
エミール・オルリク |
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2000/3/28 エミール・オルリック Emil
Orlick(1870-1932) 「ウイーン世紀末に活躍したジャポニスム(=日本趣味)の版画家」ということくらいしか知りませんでしたので、これを機にちょっと調べてみました。 【略歴】
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Q |
2000/3/16
古い版画の紙は何故切られているのですか 展覧会でデューラーやレンブラントの頃の版画を見ると、画面の周りで紙が切られているものが多いようです。何か理由があるのでしょうか? ちょっと疑問に思ったものですので。 |
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2000/3/18
古版画は何故 紙が切られているのか 「版画の歴史は紙の歴史」とも言われますが、西洋で紙が普及しはじめたのは15世紀頃からで、当然西洋版画史も、その頃から始まったことになります。 しかし普及し始めたといっても、当時は紙はまだまだ高価でした。ですから版画を刷るとその周りを切って、残った紙にまた違う版画を刷るということが通常のこととして行なわれました。デューラーやレンブラント、ブリューゲルなどの版画で当時の刷りのものは殆どが こうして周りにあるマージン(余白)が切られているのです。なお日本の紙が樹皮を原料にしているのに対し、西洋の紙はボロ布(麻や木綿)を原料にしていたため、出来あがった紙は厚手で、にじみやすいものでした。そのためレンブラントなどは、良い作品を刷るため日本から輸入された和紙を用いているほどです。こうした場合、良い刷りが得られる紙がとても貴重だったということは、容易に想像出来ます。 つまり「当時は紙が高かったから」が正解ということです。 |
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2000/1/15
デューラー版画の値段とそれを買った人たち スイス在住のMと申します。 美術史も学んでいるのですが、先日疑問に思ったことがありました。と言いますのは、デューラーは絵画の他にも数多くの銅版画を残していますが、当時それらの銅版画をどんな人が手にして、どのくらいの値段で売買されていたのか知りたいと思っています。特に彼の三大銅版画である《騎士と死と悪魔》《メランコリア》《書斎の聖ヒエロニムス》についてお教えいただけると幸甚です。 |
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2000/1/16
デューラー版画の値段とそれを買った人たち ご質問にある版画の売り先と価格(特に彼の三大銅版画)に関するお答えですが、残念ながら正確なことはよく分からりません。 **** * **** とはいえ、その頃の様子を示唆するものがないという訳ではありません。 Franz Winziger が著した”ALBRECHT DURER”という本があります。(Rowohlt Taschen Verlag GmgH, Reinbek bei Hamburg,1971) この原著を上野の西洋美術館の館長をされた前川誠郎さんが1985年に訳されたのが、グラフ社から「デューラー」というタイトルで出版されています。ISBN4-7662-0100-0C1071 以下はこの本からの一部引用です。なお数字は引用の該当頁。 **** * **** ・ 今日、デューラーの手になる約120点の絵画…約350点の木版画、および100点余りの銅版画が遺されている。(P.15) ・ デューラーは、それに見合う報酬が得られないために、(油絵の)大作の注文を引きうけるわけにはいかず、彼の妻は市場や博覧会で夫の版画を売りさばかねばならなかった。(19) ・デューラーの父は、義父の遺産の一部200グルデンに100グルデンの借金を加え、今日のブルク通りにあった金工師クラフトの家を手に入れた。(24) ・ (デューラーの妻)アグネスのもたらした持参金200グルデンは、市民の生活水準にとって相当の額であり、中程度の家を購入するに充分なほどであった。(40) ・ 1505年、デューラーは再びベネツィアに旅だった。…デューラーの妻は、8月24日に始まるフランクフルトの定期市へ夫の版画を売りに出かけた。(92) ・ デューラーはすでにひとかどの高名な芸術家だったにもかかわらず、ピルクマイヤーに旅費を立て替えてもらわなければならなかった。デューラーはこのほかにも、新作の小品を携えていったが、それらは1点9ドゥカートで飛ぶように売れた。また木版画と銅版画を入れた帙を持って行ったことも確実である。(93) ・ (デューラーの購入した)ユークリッドの版本の表紙には、デューラー自筆の書き込みがあり、この本をヴェネティアにて1507年に8ドゥカートで購入したとある。(94) ・ デューラーは(油絵の大作 ローゼンクランツ祝祭画 1506年 プラハ国立絵画館)によって110グルデンを得た。(99) ・ (1509年油絵・板絵 ヘラー祭壇画)デューラーは初め130グルデンを要求したが、割が合わないとわかって総額200グルデンまで引き上げた。(111) ・ イヨルク・タウジイという男が400グルデンで同様のマリア像を依頼した時、(それを)「断り」、そんなことを引きうけたら乞食になる、…私は版画に向かいたい。(111) ・ デューラーは、アーヘンで〈マテス〉に2グルデン相当の作品を贈った。多分版画だったのであろう。この〈マテス〉なる人物が誰であったかは確定し難いが、あるいはマテス・ピュヒラーかも知れない。このピュヒラーは、(マクシミリアン1世の書記官で)...100グルデンの年金を終身にわたり市税よりデューラーに給付するというニュルンベルク市あての命令を認めたのも彼である。(168) (以上引用オワリ) ***** ***** ***** 【推測 当時の物価と版画の価格】 当時の1グルデンが現在の幾らに相当するか、というのはなかなか難しいのですが、200グルデンで家が買えたということで、仮に家が2000万円とすると1グルデンが10万円ほどということになります。
実際はこの半分にせよ倍にせよ、ある程度のヒントにはなりそうです。 ヘラー祭壇画が2000万円というとズイブン儲かったような気がしますが、これは1503年頃から打ち合わせがはじまり、1508年の大半を費やし、1509年夏に完成ということですから、手間や時間に比べ、案外割の合わない仕事だったのかもしれません。 【版画で生業をたてた最初の画家 デューラー】 デューラーの銅版画の場合、こうしたルートで売られたものも当然あるでしょうが、デューラー自身が版元となったので、儲けも自分のもの。生活費の多くをこれでまかなっていたようです。それを示すのが、デューラーの「ヘラー書簡
1507/2/12」で、ここには「もし私がこれまで版画をやっていたとすれば、私は1000グルデン以上裕福になっていたでしょう」と書いています
(ヘラー祭壇画を描いた頃)。デューラーにとっては、油彩の仕事は手間の割のはお金にならない。それどころか貧乏になってしまうと思っていたようです。 デューラーの手がけた作品に聖人や聖母子などを描いたものがありますが、これらは、有名な教会堂の門前の店などでも売られたでしょう。そして、それらを手に入れた人は、寝室や台所に護符のような形で壁に張ったり、また普段はしまっておいて、折にふれ出して眺めたり、あるいは旅行に持っていく小箱の内側に張って(聖母子など)、朝晩のお祈りの時にそれを開けて見るというような使われ方をしました。また王侯貴族や裕福な商人たちの書斎に置かれ、時として教養として子弟教育などに使われたと想像されます。 とはいえ当時の生活水準からして、やはり安いものではなかったので、デューラー家の生活を支えることは出来たとしても、版画一般の需要はそれほど大きくはなかったようです。他方、一般の人が目に出来るデューラーの作品は、教会などの祭壇画などは別にして版画を通じてであったといえます。とくに遠隔地の人にとって…。そういう意味では、版画は現在のインターネットと同じような時代の先端をいくメディアであり、デューラーの芸術を広く伝える最適なメディアであったとも言えます。 |
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| PS
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上記のコメントに対する追記です。(2000/5/5) NIFTYのFREKIにて、児島秀樹さんという方から、1グルデン銀貨の重さ(正味)、および当時の金銀換算比率を教えていただきました。 ================================= グルデン銀貨 マクシミリアン1世、ドイツ銀貨 2シャウグルディナー、1509年、61.01グラム。フェルディナント1世、ドイツ銀貨 ライヒス・グルディナー、1557年、30.55グラム。カール5世、ネーデルラント銀貨ダールダー・カルロス、1555年、28.15グラム。反乱諸州の最初の貨幣=1575年発行レーウェン・ダールダー貨(ライオンのダールダー)、約27.68g。品位1000分中750。これを見る限りでは、グルデンは30g程度。 金銀換算 1グルデンが30gの銀。金でいうと2.5gほど。ということから、私が思った1グルデン=10万円ではなく1グルデン=1万円というのが当時の実情に合っているのではと思うようになりました。それに家の価格とはいえ、電気や水道、空調設備のない当時のことですから、家も案外安かったのではと思います。 【レンブラント版画】 【デューラー版画】 |
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