アルブレヒト・デューラー Albrecht Durer 1471-1528
「ネーデルランド旅行日記 Diary of a Journey in the Netherlands」


leafs.gif (272 バイト)北方ルネッサンスの巨匠デューラーは絵画や版画の面でよく知られていますが、同時に「測定論」や「築城法」、「プロポーションと美術論」などのの理論書を著したり、また手紙・日記など当時の様子を伝えるものを数多く残しています。

以前、NIFTYの某会議室で「デューラーの版画は当時いくら位したのだろうか」という疑問から、16世紀頃の貨幣価値についてアドバイスをいただいたことがありましたが、今回デューラーの「ネーデルランド旅行日記」(英語版) を手にすることが出来ました。


この日記は1520年〜21年にかけて記されたものですから、デューラーおよそ50歳。すでに有名になっていた時のものです。人に読ませるものというより、誰に逢って幾ら使ったというような、備忘録のようなものですが、当時の様子が良く分かり、なかなか面白い。

500年前の日記ということで、今さら版権の問題もありませんので、拙い粗訳ですがご紹介しようと思います。今年中に終わればいいなぁ と思ってますのでお付き合いください。この訳の元になったものは1913年に刊行された「Record of Journeys to Venice and Low Countries by Albrecht Durer 」ですが、この復刻が1995年にDover社から出ています。(ISBN 0-486-28348-8)ご興味のある方はご覧ください。


翻訳中、青字の部分は訳者の解説です。地名・人名はなるべく原語を示しました。1−1などの数字は整理のため私が便宜上つけたもので、原文にはありません。

2001年1月


目次

1: ニュルンベルクからアントワープ (この頁下)

ニュルンベルク−フランクフルト−ケルン−アントワープ

2: アントワープにて

   翻訳中

3:

 


 


1−1

1520年
聖キリアンの日のあとの木曜日、私・アルブレヒト・デューラーは、自分の責任と費用で妻をつれニュルンベルクからネーデルランドに向けて出発した。その日はErlangenを通り、Baiersdorffで宿泊。3クラウン(crown)より6ペニッヒ(pfennig 以下 pfと略)少ない額であった。

金曜日、Forchheimに至り、そこで バンベルク(Bamberg)までの運賃22pfを払った。大司教に聖母の絵と、「聖母伝」、「黙示録」そして1フローリン(florin)相当のエングレーヴィング(銅版画)を贈った。彼は私を客として迎え通行手形と3通の紹介状をしたためてくれた。そして1フローリン分のツケがあった宿代を清算してくれた。

Bamberg から フランクフルト(Frankfurt) までの船代として 船頭に6フローリン分 金貨で払った。 Lucas Benedict 親方と 絵描きのハンス(Hans) がワインをくれた。パンに4pf、チップに13pf支払う。

【「聖母伝 1505頃」、「黙示録 1498」】共に、デューラーが制作した大型木版連作版画です。これらの版画は、デューラーの名声をヨーロッパ中に広げました。デューラーは、今回の旅行に際し油絵の小品のほか、少なからぬ量の自作の版画を持っていき、「商売目的ではないか」と疑われたほどでした。デューラーにとり、これらの版画は自分を紹介する「名刺」であり、またお金の代わりともなります。

【絵描きのハンス】Bambergの宮廷画家 Hans Wolf のこと


【聖キリアン】アイルランドの僧侶で、司祭に叙される。686年、お供と共にローマに行きConon 法王から Franconia(バーデン とバーバリア地方)の宣教活動の命を与えられる。

この使命は司祭のColmanと助祭Totnanの助けもあり順調に行われ ビュルツブルク候(Duke of Wurzburg)を改宗させたが、このブルツブルク候が、自分の兄弟の妻(未亡人)と結婚しており、これをキリアンが「キリスト教では許されることでない」と諌めた。

離婚の危機を感じた 妻 Geilana は、夫が軍隊を引き連れ出征してる間に3人の首をはねた。聖人祭は7月8日。

http://saints.catholic.org/saints/kilian.html


1520年7月12日、デューラーは妻と女中のスザンヌをつれてネーデルランドに旅立ちます。目的はなんと「年金問題」。

皇帝マキシミリアンI 世から100グルデンの年金を約されたのですが、この皇帝が突然亡くなり、支払い担当だったのニュルンベル市当局がこれをうやむやにしようとしたので、しかたなく新皇帝カール5世(=神聖ローマ皇帝)にあい、年金を確約してもらうという算段です。

旅程をおおざっぱに言うと、ニュルンベルクからマイン川を船で下り、ライン川に合してからケルンに渡りそこから陸路でアントワープに向かう旅となります。まずは、マイン川に沿っての川下りです。

1−2
Bamberg からEltman へと旅をしたが、手形を示して自由に進むことができた。そこからZeilを通過した。
この間、私は21pf(ペニッヒ)使った。

(土曜日)Hassfurtに着いた。手形を見せると通行税なしで通してくれた。私はBambergの司教の尚書院に1フローリン払ったのだ。次いでThresの修道院に着いた。手形を見せ、またも自由に通行できた。そして Lower Euerheimへと旅を進めた。そこでその夜を過ごし、1pf使った。

(日曜日)そこからMeinbergに行き、そこで書類を見せ、通過することができた。次にSchweinfurtに着いた。そこではGeorge Rebart博士がもてなしてくれ、船にワインを届けてくれた。ここでも自由通過であった。蒸し焼きの鳥に10pf。厨房と小僧の費用18pf。

それからVolkachに着き、手形を見せ、旅を続けてSchwarzachに着いた。その夜宿泊。22pf使う。


木曜日にニュルンベルクを出立したデューラーたちは、その日Baiersdorff で宿泊。金曜日にはForchheim を通りBambergで通行手形や推薦状を準備。その日宿泊。翌土曜日はEuerheim、日曜日はSchwarzachで宿泊。

とまあ、こんな感じの旅行を続けます。

このあたりを地図でみると、まるでアリが進むような感じすら受けます。なにしろ、ニュルンベルクからBambergまでおよそ60kmの距離。現在なら電車で30分ほどですが、ここを1日半ほどかけて進むのですから...。


このあともしばらく地名が続き退屈ですが、お付き合いを...

1−3
月曜日は早起きし、Tettelbach に向かう。そしてKitzingenに着き、手紙を見せ歩を進める。37pf 使う。それからSulzfeldを通りMarktbreitに着く。手紙を見せて通過。 Frickenhausenを過ぎて、Ochsenfurth に至る。手紙を見せ、自由通過。Eibelstadt、Haidingsfeldt、そしてWurzburgへ。そこで通行手形を見せ、自由通過。そこからErlabrunn に旅をし、そこで宿泊。22pf使う。

(火曜日)そこからRetzbach、Zellingenを通り、Karlstadt に着く。通行手形を見せ、先に進む。Gmunden(Gemunden)に着き、そこで朝食。22pf使う。ここでも手形を見せ、自由通過。


地名がつづくので、やや退屈な部分です。ここでドイツ語の地名の語尾の意味を、英語と対比させながらご紹介。「もっとあるよ」という方。「それは違うよ」という方。大歓迎 ^^;

−bach 小川:英語では beck
−bad 英語の bath 浴場 温泉の意味
−berg 山:英語では barrow
−burg Burgは城市=城壁のある街 英語では borough
−chen 縮小語
−dorf 村、里:対応する英語では-thorpという形で地名に残る
−feld 野:英語の field
−fels 岩
−furt 浅瀬:英語の ford
−hausen 英語のhause と同源
−heim 人里、村:英語のhomeに対応
−hof 屋敷内、構内
−kirch 教会:英語のcharch
−land 土地、地方、領土:英語のlandに対応
−lich 〜のような
−loh 森林の中の空き地
−markt 市(いち)、広場:英語のmarketと同源
−see 湖、海:英語のsea
−stadt 町、都市:statt も同じ
−stein 石、岩山:英語のstone
−tal 谷:英語の dale あのネアンデルタール人のタール。thalも同
−ten または −den (英語の -ton または -don)町 town と同語源
        例 Gemunden 英語ならLondon とか Brightonとか
−ling 縮小語
−wald 森:英語ではwood とかwold とか

1−4
我々は、そこ(Gemunden)からHofstettenに行った。そこで手形を見せ、通してもらった。次にLohrに着き、ここでも手形を見せ旅を続けた。今度はNeustadtに着き、紹介状を見せ、通してもらう。 ワインと蟹に10pf払う。そこから Rothenfelsへ行き、手形を見せ、自由に通過。この日はここで1泊。20pf使う。

水曜日、朝早く出立。St.Euchariusを通り、Heidenfeldに着く。そこからTriefenstein、Homburg へと行く。手形を見せ、自由通過。そこからWertheimへ行く。手紙を見せ、通してもらう。57pf使う。そこからProzeltenへ行き、通行手形を見せて通してもらう。次にFreudenberg へと進み、紹介状を見せて通過。そこからMiltenbergへと至り、一泊。手形を見せて通してもらう。その日は61pf使う。


訳の中に、「手紙」とか「(通行)手形」とかが出てきますが、passとあるのを(通行)手形にし、またletter とあるのを手紙と訳しています。

さて、これらをデューラーがどういう理由で書き分けているのか。また自分と妻、女中の3人での旅行なのに、ある部分では 「私は次に...へと旅した」と書き、またある部分では、「我々は...」としてあり、このあたりも、どんな意味の違いがあるのか、ちょっと興味をそそられるところです。

今日の訳の部分も地名の羅列ですが、とりあえずフランクフルトに到着です。

1−5
(木曜日)そこからKlingenberg へ。手形を見せて通過。Worth、そしてObernbergを通り、Aschaffenburg へ。手形を見せ通過。この日52pf使う。さらにSelgenstadt、Steinheimへと。紹介状を見せて通過。その日、我々は Johannes と同宿。彼に町を案内してもらい、またとても親切にしてもらう。16pf 使う。

金曜日の早朝、Kesselstadtへ。通行手形を見せ先に進む。そこからフランクフルト(Frankfurt) へ。またもや通行手形を見せて通る。 6white pfと 1.5 thaler 支払う。小僧(boy)に2white pf やる。 Jacob Heller氏が宿に来て、ワインをご馳走になる。

【Jacob Heller氏】
フランクフルトに泊まったデューラー一行の宿にワインをもってきてくれた人物ですが、かってデューラーの大作「ヘラー祭壇画」(1508-09年)の依頼主でフランクフルト在の富豪(反物商)Jacob Heller。この祭壇画でデューラーは総額200グルデン以上を得たという記録がありますが、残念ながら、焼失し今は模写だけが残っています。

一行は更にフランクフルトから先に進みます。


1−6

(土曜日)私はフランクフルトからマインツ(Mainz)まで1フローリンと2 white pf で荷物を運んでもらうように交渉し、その男に更に5フランクフルト・ターラー(お金の単位 Frankfurt thaler)支払った。その夜、8 white pf 使う。

日曜日の早朝、マインツへ向け船出した。途中 Hochstに着き、そこで通行手形を見せ通してもらった。8フランクフルトpf使う。そこからマインツへ。(マインツでは)荷物を降ろすのに1 white pf。船頭たちに14フランクフルト・ターラー。帯( 荷物を縛るためか ?=girdle)に18pf支払う。

荷と自分たちのケルン行きの船賃として3フローリン払い、更にマインツで17 white pf 使う。


1−7

(マインツで)監督(warden)をしているペーター・ゴールドシュミット(Peter Goldschmidt) がワインを2本くれた。ヴァイト・ヴァルンビューラー(Veit Varnbuler) が招待をしてくれたが、彼の主人は自分の客として扱ってくれ、彼からお金を受け取ろうとはしなかった。私に大いなる敬意をはらったのだ。

マイン川がライン川に合流するこのマインツを出発したのは、マグダラのマリアの日のあとの月曜日だった。肉とパンに10ターラー。玉子と梨に9ターラー払う。

レオナルド・ゴールドシュミト(Leonhard Goldschmidt)が、ケルンまでの船旅での料理にと ワインと鳥(家禽)をもってきてくれた。Jobst親方の兄弟も同じようにワイン1本、そして絵描き達がワイン2本を船の中でくれた。そこからElfeldに行く。手紙を見せたので通行料は取られなかった。

                          
                                ニュルンベルク、バンベルク、ビュルツブルク

デューラーにとっては、取り立てて目新しいことのない街(=別言すればよく知っている街ということになると思いますが)でしょうが、これらの街を観光案内風にちょっとご紹介しましょう。

【ニュルンベルク】
デューラーが生まれ、活躍した街。11世紀半ばに建都。南ドイツ、バーバリア地方の主要都市。北ヨーロッパからここを通り、ミュンヘン、ベネティア(イタリー)へと抜ける交通・交易の要所。
第一回のナチス党大会がここで開かれ、戦後はニュルュンベルク裁判の場にもなった。市内には1050年に築城され、500年の間 神聖ローマ皇帝の居城だったカイザーブルクが市の北端にあり、すぐそばにデューラーが1509年から1528年に没するまで住んだ家が現存。Albrecht Durer Haus として公開。

【バンベルク】
デユーラーがここの司教から、旅に必要な通行手形や推薦状を得る。水の都ベニスにもたとえられる美しい光景で有名な古都で、戦禍をまぬがれ、中世のたたずまいを今に残す。「世界遺産」に指定。

【ビュルツブルク】
紀元前1000年頃、ケルト人が砦を築いたのが、この街のはじまり。この砦が発展したのがマイン川西岸にあるマリエンベルク要塞で、中の博物館に中世の彫刻家リーメンシュナイダーの作品コレクションがある。またロマティック街道(Romantische Strasse)の基点で、「世界遺産」にも指定。守護聖人は聖キリアン。毎年7月にはキリアンヌ・ワイン祭が開かれ、教会ではミサが、街中では仮設の遊園地が作られ、また商店ではバーゲンが行われるとのこと。オランダとしか通商がない幕末の長崎にやってきて、自ら「山オランダ」出身といっていた医者シーボルトの本当の生誕地がここ。

1−8
(Elfeld から)Rudesheimに行き、ここで船へ荷物を積むのに2white pf支払う。それからEhrenfelに着き、ここで手紙を見せたが2gold フローリン払わねばならなかった。もっとも2ケ月以内に自由通行手形を手に入れてそれを見せれば、関税官がそのお金を返してくれるということであった。

そこからBachrachに行ったが、ここでも2月以内に通行手形を見せなければ、通行料を支払うということを書面で約束しなければならなかった。次にKaub に着く。持っていた通行手形を見せるが、もやは役には立たなかった。そしてその前と同様の約束を書面で行った。Kaubでは2ターラー使う。

次にSt.Goarに着き、持っていた手形を見せると、税関の役人が他のところではどうだったのかと尋ねてきたので、払わずに通してもらったと言ってやった。 使いの者に2 white pf 払う。


1−9

次に着いたのはBoppardである。ここでトリアー(Trier)の税関の係官に手形を見せるものの、商業目的の品物は持っていないということを書面に証し、署名・封蝋(ふうろう)をして やっと通れた。

我々が次に訪れたのはLahnsteinである。手形を見せると税関の係官は我々を通してくれ、そして仁慈深きマインツ大司教にこのことをお伝えしてくれと言って、私に金属のうつわに入れたワインをくれた。というのは、彼は私の妻をよく知っており、私に逢えたことを歓んだからだった。

次にEngersに着く。ここはトリアー領内である。手形を見せると通してくれたので、バンベルク大司教にお伝えすると述べた。我々が次にきたのはAndernachである。手形を見せて通る。7ターラー。そしてさらに4ターラー使う。


そしてセント・ジェームスの日の早朝、AndenachからLinzへと旅した。


                            デューラーの旅関連の都市の簡単なご紹介 第2弾

【フランクフルト】
フランク人の浅瀬(furt)が語源。マイン川の北岸に位置する。見本市などで有名な商業都市。デューラーの妻、アグネスは、ここで開かれる夏の大市で夫の版画を売って、家計の足しにした。今でも、ここで開催される各種のメッセ=市は有名。中世には神聖ローマ帝国皇帝の選挙や戴冠式が行われた。またゲーテの生まれ故郷としても知られている。

【マインツ】
ライン川とマイン川の合流地点に位置する。ローマ時代から軍事・交通の要所。活版印刷を発明したグーテンベルク(1400頃-1648)が生まれ活躍した。

【トリアー】
モーゼル川岸に開けたドイツ最古の街。ローマ人の植民地として紀元前16年に建都。2世紀に作られた城壁の北門が今も残る。浴場やローマのコロセウムの小型版のような円形劇場の跡もあり。「世界遺産」に登録。ルクセンブルグとの国境まで10キロほどの場所にある。日本人にはあまり知られていないが、ドイツ人観光客が最も多い街。カール・マルクスの生誕地。

【ボン】
西ドイツ時代の首都で、大学都市。ベートーベンとシューマンの生誕地。

【ケルン】
ローマ時代の植民地として始まり繁栄。(ケルンは英語でいうコロニー = 植民地 の意)ローマ皇帝ネロの母、アグリッピーナがここで生まれている。大聖堂が有名。

1−10
そこ(リンツ)から、ボン(Bonn)の税関へと向かった。無事通過。次はケルン(Koln)へ。船の中で9white pf。そして更に1pf。果物に4pf使う。

ケルンでは、荷降ろしに7white pf、船頭たちに14タ−ラー払う。いとこのニコラス(Nicolas)に、ベルベットのエリが付いて、毛皮の裏打のある黒の自分のコートをやる。彼の妻に1フローリン。フッガー(Fuggar)がワインをくれ、ヨーハン・グロッサーペッカー(Johann Grosserpecker) もワインをくれ、従兄弟のニコラスもワインをくれる。

【いとこのニコラス】父方のいとこで、ケルン在。かってニュルンベルクでデューラーの父(金工師)のもとで働いていたことがある金工師。なおデューラー自身も父の計画では本来、金工師になるはずであった。

【フッガー Fuggar 】アウグスブルクを拠点とした富豪。15-16世紀にかけて栄え、神聖ローマ帝国の御用銀行でもあった。その関係者。

 


生まれ故郷にして、制作活動の拠点でもあったニュルンベルクを7月12日に出発したデューラー一行は、マイン川・ライン川下りの船旅をしながらケルンへに着き、従兄弟のニコラスらと再会。そして27日になって、陸路でアントワープへ向かいます。長かったドイツ領内の旅から、いよいよネーデルランド(ライン低地地方)の旅となります。

ここまでの訳は、デューラーの日記の量からいうと、ようやく1割ほどになります。年内にはどうにか終わりそうな気もしますが、果たして どうなりますやら...^^;

1−11
Barefoot Convent(裸足修道院?)で 軽食会を催してくれ、修道士の一人が私にハンカチをくれた。その上、ヨハン・グロッサーペッカー氏から、最上質のワインを12升(マス)いただく。ボーイに2 white pf と 8 ターラー やる。ケルンでは、そのほか2フローリンと14white pf 使う。荷造りに10 white pf、果物に3 pf。出発に際し1pf、使者に1white pf。

聖パンタレオンの日(St.Pantaleon's Day =7月27日)、ケルンを出発。Busdorfという名の村に着きそこで宿をとった。3white pf 使う。

日曜日の早朝、Rodingenへと旅をし、そこで朝食。はじめ2 white pf、そして3pf、さらに3pf払う。そこからFrei-Aldenhovenに着き、宿泊。3white pf使う。

月曜日の早朝、Frelenberg へと旅をし、Gangeltの小さな町を通り、Susterseelという村で朝食。2 white pfと2ターラー払い、さらに1 white pf、また2 white pf使う。 そこから我々はSittard という素敵な町に旅し、さらにリエージュ(Liege)領であるStocken へ。こぎれいな宿屋に泊る。4 white pf。


1−12

火曜日の早朝に出立。マース(Maas)川を渡り、Merton Lewbehen (原文のママ)に到着。朝食をとり、2スタイフェル(stiver)、若鳥に2 white pf払う。そこから荒地を通り Stosserに着く。そこで宿泊。2スタイフェル払う。

水曜日の早朝 West Meerbeckへ向けて旅立つ。パンとワインに3 スタイフェル。Branthoek まで行き、そこで朝食。1 スタイフェル。そこからUylenbergへと進み、泊まる。3スタイフェルと2pf。

木曜日の早朝 Kouys へ。そこで朝食。2スタイフェル使う。アントワープ(Antwerp)に着く。

【スタイフェル】ネーデルランドの貨幣でおよそ80 pf(ペニッヒ)に相当したようです。
研究社のリーダーズ(英和電子辞書)を見ると「スタイヴァー 《オランダの通貨単位: =1/20 gulden》; ほんの少額」 とありますが、これはモチロンもっと後のことでしょう。 ^^;「スタイフェル」はドイツ語での発音ですが、スタイヴァーとしたほうが良いのかもしれません。

この続きは、アントワープ編ですが、現在 翻訳中です

 

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