英国最大の風景画家として知られているターナー ( Joseph
Mallord William Turner)は、1775年ロンドンに生まれた。父は下町のコベント・ガーデンで床屋を営み、無学だが健康で快活な職人であった。ターナーは近所にある無料学校に通ったぐらいで殆ど独学。まして画家となるための
正式な訓練は受けなかったが、早くから美術に対する優れた才能をみせ、すでに12歳ころからロンドンの風景を描いては、父の床屋の店先に並べて売っていたと記録されている。14歳でロイヤル・アカデミーの付属学校に入学。1794年に出品した水彩画が評判を集め、その才能が、ベスレヘム病院に勤めていた理学者で美術コレクターとして知られていたモンロー博士の目に留まることになる。モンロー博士は、金曜日の晩になると画学生を自宅に呼んでは所蔵の美術品をみせる会を主宰していたが、ターナーとその友人トーマス・ガーティンに小遣いを渡し、作品の模写をさせるという仕事を与えた。この3年にわたるアルバイトがターナーの才能に磨きをかけただろう事は、想像に難くない。1799年、ロイヤルアカデミーの準会員に、そして1802年26歳にして正会員になった。いづれにせよ、驚くべき早熟さである。
初期の作品は17世紀オランダの海景画や、クロード・ロランらの影響を受けたものが多い。1791年最初のスケッチ旅行。以降およそ50年間にターナーは国内だけでなく
フランス、スイス、イタリー、オランダ、ドイツなど大陸の各国を含め30回以上旅行する。よく『旅の画家』と称される所以だが、特にイタリーの光と大気はターナーの後期の作風に大きな影響を与え、印象主義の先駆けとなったことは
良く知られている。
1807年、32歳で遠近法の教授にえらばれ、1811年には絵画教授。彼自身この肩書きをいかに高く評価していたかは、自分の名前のあとに
RAPP ( Royal Academician、 Professor of Perspective、後に Professor of Paintingの略)との記述をおこなっていることからも
明らかであろう。ターナーから教えを受け、のちに動物画家となったランドシーア(トラファルガー広場のライオン=三越のライオンのモデル
を制作)
はターナーの人柄にふれ、絵画の基礎的技術からキッチリと教わり、その意味では最高の教授だったが、粗野でがさつで、無教養であったと評している。またエドワード・デイは、ターナーは印象に乏しく、会話もつまらないが、その作品は高く評価されるべきだと述べているのは
面白い。
1807年、オリジナル版画集「研鑽の書」の刊行を始める。1819年未完のまま中断。ターナーの作風や手法は次第に変化し、「彩られた霞」と言われる画風になってくる。パトロンの一人、ウオルター・フォークスがあるときターナーの制作現場を目撃して次のように述べている。「絵の具を紙の上に垂らし、充分に染みた後それをひきむしり、ぐしゃぐしゃにした。一種の狂乱状態になって、まるで混沌といってもよい。するとやがてその中から、まるで手品を見ているかのように絶妙で繊細な感覚に溢れた美しい船が姿を現しはじめ、お昼までには勝利のうちに完成したのだ。」
晩年は極端な人嫌いになり、偽名をつかってひっそりと暮らした。1851年12月19日ロンドンで没す。14万ポンドにのぼる遺産で、恵まれない独身画家のための慈善基金を作るとか、自分の作品のため美術館を創るという遺言を残したが、国に遺贈された作品は大英博物館やテートギャラリーに収蔵されている。
なお、篤志家の寄贈により
現在はテートギャラリーのわきにターナーギャラリーが増築。