Turner Prints

J.M.W ターナーとその版画

07/08/01

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この原稿は、1985年9月 伊勢丹新宿店 美術画廊で開催したターナー版画展のため制作した小カタログを再録したものです。

0907.gif (1546 バイト)J M W ターナー 1775-1851

英国最大の風景画家として知られているターナー ( Joseph Mallord William Turner)は、1775年ロンドンに生まれた。父は下町のコベント・ガーデンで床屋を営み、無学だが健康で快活な職人であった。ターナーは近所にある無料学校に通ったぐらいで殆ど独学。まして画家となるための 正式な訓練は受けなかったが、早くから美術に対する優れた才能をみせ、すでに12歳ころからロンドンの風景を描いては、父の床屋の店先に並べて売っていたと記録されている。14歳でロイヤル・アカデミーの付属学校に入学。1794年に出品した水彩画が評判を集め、その才能が、ベスレヘム病院に勤めていた理学者で美術コレクターとして知られていたモンロー博士の目に留まることになる。モンロー博士は、金曜日の晩になると画学生を自宅に呼んでは所蔵の美術品をみせる会を主宰していたが、ターナーとその友人トーマス・ガーティンに小遣いを渡し、作品の模写をさせるという仕事を与えた。この3年にわたるアルバイトがターナーの才能に磨きをかけただろう事は、想像に難くない。1799年、ロイヤルアカデミーの準会員に、そして1802年26歳にして正会員になった。いづれにせよ、驚くべき早熟さである。

初期の作品は17世紀オランダの海景画や、クロード・ロランらの影響を受けたものが多い。1791年最初のスケッチ旅行。以降およそ50年間にターナーは国内だけでなく フランス、スイス、イタリー、オランダ、ドイツなど大陸の各国を含め30回以上旅行する。よく『旅の画家』と称される所以だが、特にイタリーの光と大気はターナーの後期の作風に大きな影響を与え、印象主義の先駆けとなったことは 良く知られている。

1807年、32歳で遠近法の教授にえらばれ、1811年には絵画教授。彼自身この肩書きをいかに高く評価していたかは、自分の名前のあとに RAPP ( Royal Academician、 Professor of Perspective、後に Professor of Paintingの略)との記述をおこなっていることからも 明らかであろう。ターナーから教えを受け、のちに動物画家となったランドシーア(トラファルガー広場のライオン=三越のライオンのモデル を制作) はターナーの人柄にふれ、絵画の基礎的技術からキッチリと教わり、その意味では最高の教授だったが、粗野でがさつで、無教養であったと評している。またエドワード・デイは、ターナーは印象に乏しく、会話もつまらないが、その作品は高く評価されるべきだと述べているのは 面白い。

1807年、オリジナル版画集「研鑽の書」の刊行を始める。1819年未完のまま中断。ターナーの作風や手法は次第に変化し、「彩られた霞」と言われる画風になってくる。パトロンの一人、ウオルター・フォークスがあるときターナーの制作現場を目撃して次のように述べている。「絵の具を紙の上に垂らし、充分に染みた後それをひきむしり、ぐしゃぐしゃにした。一種の狂乱状態になって、まるで混沌といってもよい。するとやがてその中から、まるで手品を見ているかのように絶妙で繊細な感覚に溢れた美しい船が姿を現しはじめ、お昼までには勝利のうちに完成したのだ。」

晩年は極端な人嫌いになり、偽名をつかってひっそりと暮らした。1851年12月19日ロンドンで没す。14万ポンドにのぼる遺産で、恵まれない独身画家のための慈善基金を作るとか、自分の作品のため美術館を創るという遺言を残したが、国に遺贈された作品は大英博物館やテートギャラリーに収蔵されている。

なお、篤志家の寄贈により 現在はテートギャラリーのわきにターナーギャラリーが増築。

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0908.jpeg (643 バイト)ターナーの版画

あまり知られていないが、ターナーは小さい頃から数多くの版画を手がけており、その数は生涯を通じ1000点に近い。ターナーの生まれたコベントガーデンには多くの画家や彫師、版画商が住んでいた。現存するターナーの最初の素描は12歳の時のもので、それはオックスフォードを描いた版画を模写したものだったし、またターナーが出版業者の求めに応じて、版画制作用の下絵を最初に描いたのはターナーが18歳の時であった。

その中で、本格的な版画制作の試みが「研鑽の書」である・ターナーが下絵を描き、輪郭線部分のエッチング(線描)を手がけ、彫師を指導してはメゾチントを行わせ、自らが版元になって刊行するという気の入れ方だったが、このオリジナル版画のシリーズはターナーの性格が災いして中断されてしまった。しかし同じ頃、出版業者クックの企画した「英国南海岸の名勝 1814-26年 」 のシリーズは大成功であった。ターナーはコノシリーズのため、40点の下絵を描いているが、その頃絵画のほうで評判を落とし、絵の売れ行きが芳しくなかったターナーの富と名声を支えることになる。評判は海外にまで及び、この版画集を見たベルリン国立美術館の館長ワーゲン博士は大いに感心し、1835年に渡英してターナー絵画の実物に接するが、その頃、すでにあの朦朧(もうろう)とした画風になっていた絵を見てがっかりしてしまったという逸話も残っている。

引き続き1820-30年代にかけてピクチャレスクな版画が一種のブームを迎えたとき、ターナーが下絵を描き、彫版師hが版を作ったいくつかの版画集が出版された。代表的なものに「フランスの河」シリーズや、「イングランドとウエールズの名勝」などがある。しかし30年代の後半にはブームも去り、出版社チャールズ・ヒースも倒産。競売にかけられた銅版画の原版をターナー自身が買い戻すありさまであった。詩集への挿絵も行っており、まかでもサミュエル・ロジャーズの詩集への挿絵は高い評価を得た。

「研鑽の書」の版画は、エッチングとメゾチントの併用で、赤茶色のインクで刷られており、ターナーの初期作風を示している。また他の版画集はその多くがライン・エングレーヴィングで黒のインクを用いていることから、区別は容易である。

なお、ターナー原画に基ずく版画・挿絵集の主なものは次のとおり。

  • The Copper Plate Magazine; The Pocket Magazine
1798
  • Cook's Picturesque Views of  the Southern Coast of England
1814-26
  • Views in Sussex
1816-20
  • The River of Devon
1815-23
  • Hakewill's Picturesque Tour of Italy
1818-20
  • Whitakr's History of Richmondshire
1818-23
  • Provincial Antiquities od Scotland
1819-26
  • Harbours of England
1827-28
  • Picturesque Views in England and Wales
1827-38
  • Roger's Poems
1834
  • Byron's Life and Works
1832-34
  • Rivers of France
1833-35
  • Scott's Poetical Prose Works
1834-37

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0908p.jpg (1036 バイト)研鑽の書
        Liber Studiorum 1806-1819

 

 

「研鑽の書」 フランス海岸 

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1806年、水彩画家で友人でもあったウエルズの勧めもあって着手されたオリジナル銅版画集。クロードロランの描いた素描集で、のちに版画集になったLiber Veritatis(真理の書)をもじって名づけられている。「真理の書」が作品の記録を目的としたものだったのに対し、この「研鑽の書」はターナーの風景画のレパートリーの広さを示すものだといわれている。

ターナーが下絵を描いては、銅版上の線描き部分をエッチングし、ロイヤルアカデミーの学友のチャールズ・ターナーが陰影部分のメゾチントを施すというコンビで始められ、ターナー自らが版元になってまず1807年第1回配布として5点が世に出されたが、この企画は経営的には大失敗で、1819年予定の101点のうち、71点が出されたところで中断されてしまった。(当初予定は毎月1回 5点づつを20ケ月で 計100点であったが、途中、表紙部分がおまけとしてだされたため 表紙を入れて71点が実際に刊行された数字となった)

ハーリーストリートに持っていた画廊の壁に手書きのお知らせを1枚貼るというのが唯一の広告であったし、また画商に手数料を払うのをいやがったため、この版画集を希望するものは直接ターナーのところへ出向くしか入手の方法がなかったのである。そのうえ、1810年にはおよそ100名の予約購入者リストがあったにもかかわらず、刊行は不定期で、同じ月に10点出たかと思うと、4年間何も出ないという状態で、次第に顧客も減り、ついにはケチと評判をとっていたターナーとメゾチントの彫師との間で金銭的なトラブルが生じたこと、またこの間にターナー自体の作風が変化してしまったことなどがこの中断の原因であろう。

素描の雰囲気を伝えるため、赤茶色で刷られているのが特徴で、版画はそれぞれ H:歴史画、M:山景画、M:海景画、 A:建物、P:牧歌  EP:高雅牧歌(Elevated Pastoral)といった6つのカテゴリーに分けられている。プレートサイズはほぼ同一で、およそ20x29cmである。

出版された71点の版画のうち、ターナーが下絵からエッチング、メゾチントまで行った版画が10点あり、これらはきわめて珍しいものとされている。1819年、みかんのまま中断されたとき、71点からなるセットは15ポンド弱の価格が付けられたが、殆ど忘れられた存在となり、1840年にはわずか3ポンドにまで落ちてしまった。ターナーの彫師のチャールズのもとには反古になった版画がたくさん残り、その頃もっぱら暖炉のたきつけに使われたという話も残っている。

1851年、ターナーの没後、画室に5020枚もの大量の版画が残されているのが発見され注目を集めると、今度は状態の良いセットが892ポンド高値で買い取られたと記録に残されている。このとき、競売に付せられた版画には、空押しのスタンプがつけられたが、今回展示の版画の何点かの右下にあるのがそれである。( F.Lugt Les marques de Collection, Amsterdam 1921 no.1498 参照)

ターナーの研究者フィンバーグによると、多いときで300部が発行されたと言われるが、詳しくは不明。あまりオークションに出てくることもなく「幻の版画集」と言われている。また刊行されなかった版が Finberg72番以降である。版画の存在が確認されているもの(F91)までのリストは別表通り。

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別表:「研鑽の書」 全リスト